HEALTH SWIM in TAKAOKA Vol.19

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教育の中の水泳-連載19回

湯川秀樹と水泳

富山大学芸術文化学部教授 立浪 勝

 戦後の日本人を勇気付けた明るいニュースとして、水泳競技で世界新記録を連発した古橋広之進の活躍と湯川秀樹博士(以下湯川)の日本人初のノーベル賞受賞があげられます。ところで誰もが知る物理学者の湯川が、実は水泳と深い関係があることを知る人は少ないのではないでしょうか。
 連載15で報告した団体長距離競泳全国大会(熱海―初島間)の調査で、長く泳げる疲労の少ない泳法として観海流を知り、関連する文献を収集しました。その中に、湯川の著書もありました。
 湯川の著書、『旅人』(朝日新聞社 1958)の中に、京都一中時代に受けた水泳講習の様子が詳しく描かれています。少し長いですが引用します。
 夏になると、水泳の講習会が行われた。場所は三重県の津市。講習は私の入学前から、私が一中を去って、ずっとあとまで、ずいぶん長いこと続いていたらしい。八月の三週間。100人ぐらいの生徒が、寒松院の本堂に合宿した。藤堂高虎の墓所である。・・・(略)・・・
 泳法は観海流だった。日本伝来の泳法である。「海を観ること陸のごとし」というのが極意であった。スピードなどは、問題でない。遠泳といっても、海の中に浮いているばかり。昼の三十分だけ船の中に引き上げられて、熱いかゆを食べたが、三十分過ぎるとまた海の中だ。三時のおやつも、船から支給されるあめ湯を、海の中でのんだ。こんなふうに、水につかっていられる耐久力が重要なのだろう。一年生は五十町、二年で三里半、三年で5里というのがそのときの遊泳の基準である。

 観海流は、嘉永6年(1853年)津藩藤堂家の藩校「有造館」の水練として採用されています。観海流の流祖宮初太郎の泳ぎを、津藩重臣が、「海観如陸」と賞賛したことから名付けられたと伝えられています。湯川は、大正8年から11年までの4年間と中学卒業後も1年水泳講習に参加し、助教の免許状まで得ています。相当熱心に打ち込んで、実力も兼ね備えていたと考えられます。
観海流についてもっと知りたい方に…『観海流の伝承とあゆみ』表紙監修:山田謙夫伊勢新聞社発行 『観海流の伝承とあゆみ』(写真)によれば、観海流では五十町は3時間、三里半は8時間、五里は10時間以上と換算していますので、湯川は10時間以上の遠泳に耐えていたことになります。超エリートであった大正時代の中学生は青白き秀才ではなかったようです。
 三高(京都)進学後、湯川は様々なスポーツにも親しみ応援団の活動もしています。水泳に関する記述はありませんが、それなりに青春を謳歌していたようです。
 その後、京都帝国大学に進み、スポーツはまったくやらず、勉強に打ち込むようになっていきます。湯川は、その当時のことを、「身体も三高時代よりだいぶ細くなり、顔色も青白くなりつつあった。近眼で少し乱視がかかっている」と回想しています。
 水泳と縁が切れた感じがする湯川ですが、前記の著書に大学卒業後の自分の境遇を以下のように述べています。
 大学を卒業してからの三年間は、私の学究生活全体から見ると非常に貴重な準備期間であった。プールへ飛び込んだ水泳の選手は、最初しばらく水面をくぐっている−そういう状態に似ている。
 ここで水泳をたとえに出していることから考えると、湯川にとって中学時代の遠泳は、何時までも心の中に残る思い出だったのでしょう。

高岡総合プールクリーン大作戦を実施!

 今回初めて当施設利用者の参加を募り、『クリーン大作戦』を実施いたしました。5月15・22日(木)12:30〜13:30に13名のご協力をいただき、所員と共に敷地内の除草作業を行いました。おかげさまで大変きれいにすることができました。お忙しい中、ご協力ありがとうございました。

 

 

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