HEALTH SWIM in TAKAOKA Vol.12

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教育の中の水泳-連載12回

われは海の子

富山大学芸術文化学部教授 立浪 勝

 明治維新の原動力となった長州藩・会津藩は、藩士の子弟を教育する藩校にプール(水練池)を設置し、水泳を奨励していたことを「連載@維新の影にプールあり」で紹介しました。さらに、「連載F臨海教育と乃木希典」の稿では、乃木が学習院院長時代に臨海教育に力を入れたのは萩の水練池で水泳を学んだ影響であることも記しました。
 その後、読者から、明治維新なら薩摩のことを忘れていませんかと問い合わせがありました。そこで、今回は薩摩(鹿児島県)の水泳について述べてみたいと思います。
 日本泳法の文献によれば、鹿児島島津氏の記録に水練の様子を記した場面が数多くあり、古くから水泳が武芸として盛んであったことが窺えます。薩摩藩の流派は神統流ですが、西南戦争等で多くの達人を失い、鹿児島から神統流が消え去ろうとした時期もありました。その後、再興され現在も受け継がれています。神統流は、浮身・抜き手・平泳ぎが基本泳法です。また、弓術と縁が深く、水射など泳ぎながら弓を射る技も特徴です。
 しかし、長州や会津と同様に、藩校(造士館)で熱心に武芸の鍛錬は行っていましたが、プールまで造ることはなかったようです。錦江湾(鹿児島湾)という美しい練習場があったからだと思います。
 錦江湾といえば、小学校唱歌として唄い継がれている「われは海の子」を思い浮かべます。この歌は、長く作詞者不詳として扱われてきましたが、後に児童文学者の宮原晃一郎氏であることが明らかになりました。氏が少年時代を過ごした、桜島を臨む錦江湾を思い浮かべて書いたものと考えられています。誰でも知っている歌ですが、一部を紹介します。
今年の錦江湾横断遠泳大会の様子(鹿児島市観光フォトライブラリーより:使用許諾済み)
われは海の子 白浪の
騒ぐ磯辺の 松原に
煙たなびく とまやこそ
わが懐かしき 住家(スミカ)なれ
生まれて汐に 浴(ユアミ)して
浪(ナミ)を子守の 歌と聞き
千里寄せ来る 海の気を
吸いて童(ワラベ)と なりにけり
 何か本当に日本中の子供が海辺で育ったように思える歌詞です。
 鹿児島では遠泳がとても盛んです。特に鹿児島市立松原小学校の錦江湾横断遠泳は伝統があり、テレビでも紹介されました。筆者は偶然その番組を見ましたが、遠泳に向けてのプールでの練習が厳しく、涙を流しながら頑張る子供とそれを見守る保護者の顔が交互に映し出され、印象的でした。プールでの練習が終わると、約4kmの錦江湾横断遠泳を実施します。全員が完泳し、成し遂げた小学生のたくましい顔つきと子を抱き寄せる親の感動の涙を見たときは、学校・保護者・教師・子供間の信頼関係の深さを感じ、水泳教育の成果を確信しました。それらの映像のバックで流れていたのが「われは海の子」でした。
 鹿児島市立清水小学校の錦江湾横断遠泳も大正6年以来の歴史があり、松原小学校と共に水泳教育では知られた小学校です。両校とも、戦後長い中断の時期がありましたが、復活して現在のように学校の伝統として根付いています。
 錦江湾横断遠泳には、学校行事だけでなく鹿児島の観光行事として定着した一般向けの遠泳大会もあります。雄大な桜島をバックに泳ぎ、水温も高いので人気があり、日本を代表する遠泳大会の一つに育っています。今年は7月16日(日)に実施され、500名近くの参加者で盛り上がったそうです。
 鹿児島で遠泳が盛んなのは、「我は海の子」の歌が後押ししていることは間違いないでしょう。

 

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