HEALTH SWIM in TAKAOKA Vol.12

HEALTH SWIM TOPTheレベルアップ講座利用予定表|教育の中の水泳/連載13|  |バックナンバーに戻る

HOME>教育の中の水泳/連載13

教育の中の水泳-連載13回

硫黄島のメダリスト

富山大学芸術文化学部教授 立浪 勝

 太平洋戦争における硫黄島の戦いを描いた映画が話題になっています。クリント・イーストウッド監督の二部作「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」です。イーストウッド監督は高校時代水泳選手として活躍し、軍隊でも水泳指導をしていたと聞いているので、硫黄島で亡くなった100m自由形銀メダリスト河石達吾を知っているか興味があります。
 硫黄島で戦死したオリンピック(以下五輪)選手としてよく知られているのは、ロサンゼルス大会(1932)馬術競技で優勝した西竹一です。「西を死なせたくない」と投降を呼びかけるアメリカ兵の様子は小学校の教材にも取り上げられたことがあり、硫黄島の美談として伝え継がれています。しかし、同じ硫黄島で戦死した、水泳競技100m自由形銀メダリスト河石達吾を知る人は少ないようです。
 河石は、明治44年広島県江田島に生まれ、修道中学(現 修道学園)から慶応大学に進学し、ロサンゼルス五輪で、100m自由形で2位になっています。(58秒6、五輪タイ記録)。優勝したのは、15歳の宮崎康二です。
向かって右端が河石達吾 筆者は、河石が水球の名門修道学園の卒業生だということで、個人的愛着もあり、早くから河石に注目していました。河石は、五輪前の冬季合宿では室長を務めるほどで、人望があり、監督・コーチからも信頼されていたようです。
 ロサンゼルス大会の100m自由形を、資料を基に振り返ってみましょう。予選は4組で、各組2位とベストサード(各組で最もよい記録を出した3位)が準決勝に出場できます。1932年8月6日午前9時、予選が始まりました。河石は2組目、59秒8で3位でした。準決勝進出するにはベストサードになるしかありません。祈るしかない状況です。3組目は日本の高橋成夫が59秒5で1位、4組目宮崎康二が58秒7で1位でした。幸い、河石はベストサードで準決勝進出が決まりました。
 準決勝は同じ日の午後3時30分に始まり、1組で宮崎が58秒0の五輪新記録で1位、2組は河石が59秒0の1位で通過しました。決勝は翌日8月7日午後3時20分にスタートし、宮崎が58秒2の五輪新記録で優勝、河石は58秒6で2位となりました。メダリスト達は大歓迎の中、帰国します。選手の地元ではちょうちん行列をして祝ったと報道されています。
 河石の五輪以後の生活については、筆者自身で調べた資料が無いので機会を見て報告したいと思います。明らかなことは、当時の五輪出場選手の多くがそうであったように、すぐに普通の生活に戻り、特別扱いは無く、兵役にもついたということです。除隊後は、会社員として幸せな家庭生活を送っていました。
 しかし、時代は河石を再び戦地に送ります。昭和19年6月に予備役召集され、硫黄島に渡り、昭和20年3月17日に戦死します。享年33歳でした。

 

ページの先頭へ戻る▲

 

HEALTH SWIM TOPTheレベルアップ講座利用予定表|教育の中の水泳/連載13|  |HOME