HEALTH SWIM in TAKAOKA Vol.16

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教育の中の水泳-連載16回

水泳文化史への誘いー質問に答えてー

富山大学芸術文化学部教授 立浪 勝

 連載「教育の中の水泳」も15回を過ぎました。その間、様々な質問が寄せられました。東京のテレビ局からはクイズ番組に関連して電話がありました。大変ありがたく思っています。もっと水泳文化史について知りたいという、熱心なマスターズスイマーからの問い合わせもありました。そこで、今回は質問の多かった項目のいくつかについて答えたいと思います。

質問1.いつになったら戦後編になるのですか。
 戦前は想像以上に水泳が盛んでした。ほとんどの旧制高校・高等女学校・女子師範学校などにプールがありました。そのため調べてみると興味深い事例が多くなかなか戦後には入れないのです。もう少しお待ち下さい。
質問2.戦前は男女別々にプールで泳いだと聞きましたが。
 女学校、女子師範学校など女子専門の教育機関は問題ないのですが、都会の一般プールや海水浴場では男女別にしたところが結構あったようです。それだけでなく、大正、昭和と進み、ほとんどの女子教育機関で水泳を教えるようになると、女子に裸体の男性が水泳を教えるのは教育上問題があるという声が高まってきて、女子専門の水泳教師の養成が叫ばれるようになりました。昭和7年5月30日の読売新聞では、「インチキ水泳教師を断固取り締まる」という記事が掲載されています。内容は、水泳の実力よりも、女性に巧みに近づき水泳指導を餌にエロ狙いの不良が多いということのようです。関連として、昭和8年5月26日の読売新聞長野版に、女子専用プールの完成を告げる記事が載っています。「永らく女子群から望まれていた」ということですから、怪しげな水泳教師だけでなく、プールには怪しげな男性が多かったと考えられます。
質問3.武士の水泳練習はどのような内容ですか。
 日本は川、特に急流が多く、急流を泳ぐのに相応しい、抜き手と呼ばれる泳法が中心でした。また、日本はいたるところ湿地でしたので、馬で水田・川を渡る水馬という練習は大変大切でした。会津藩と長州藩に水練池と呼ばれるプールがあったことは連載1でもお知らせしましたが、泳ぎと同様に水馬の練習も行っています。日頃から備えを怠らない二つの藩が、幕末では勝者・敗者と立場を異にしますが、最後まで信念を貫いています。水泳から見た、武家の危機管理能力も調べてみたいと思っています。
質問4、どのようにして資料をみつけだすのですか。無言館の正面写真(著者撮影)
 一番は知人からの連絡です。小説や伝記、エッセイなどから水泳に関する記述を発見すると連絡してくれます。最近では、谷崎松子(谷崎潤一郎の妻)の「蘆辺の夢」という著書に、明治後期の上流階級の子女が水泳を習う様子が書かれていると聞き、さっそく読みました。当時の水泳指導内容を知るだけでなく、人工呼吸の訓練が行われていたことも確認できました。1冊本が見つかると、次から次へと関連人物を調べていきます。次は新聞です。図書館で明治初期からの新聞記事を根気よく読んでいきます。なかなか進みませんが大変興味深い記事が多いです。興味ある記事を見つけると、直接現地に足を運び、地元の図書館で資料を収集し、聞き取り調査を行います。
 最近は、戦前の美術学校の水泳指導に関する調査の一環で、無言館(戦没画学生慰霊美術館)を訪れました。期待した資料は見つかりませんでしたが、調査を継続しています。資料が整い検証を終えれば、いつか連載の場で報告したいと思います。

 

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