各種プールオープン!お知らせ利用予定表教育の中の水泳/連載7



 今年は日露戦争終結100年ということで、靖国神社で開催されている日露戦争展を見てきました。日露戦争当時の兵士の泳力を調べているため、何か新しい資料が発見できないかと思ってのことです。同時に、東京都中央図書館など図書館を数館回ってきました。求めている資料は発見できませんでしたが、片瀬海岸(江ノ島)で臨海教育中の学習院の生徒たちと写る、乃木大将(乃木希典)の褌姿の写真を見る機会を得ました。乃木希典と臨海教育、ちょっと調べてみました。
 明治40年、学習院の院長に就任した乃木希典は剣道と水泳に力を入れます。剣道では徹底した打ち込みを重視しました。何にも恐れない攻撃的精神を養うためです。水泳では、院長自らが海に入り、生徒の訓練を見守り、時には泳げぬ生徒の顔を無理やり水に押し付けるなどの厳しい指導を直接行ったようです。また、効果をあげるには3週間は必要と長期の臨海実習を行っています。明治41年には、宿舎を寺の本堂からテントを利用したキャンプ式に変えています。英国で触れたボーイスカウトの影響であったそうです。
 乃木希典は、長州藩の支藩の出ですが、明倫館に16歳で入学しています。明倫館については連載Tで紹介しましたが、萩にあった長州藩の藩校です。そこには日本最初のプールと言われる水練池があり、水練は必修でした。当然、乃木希典は水練池で水術師範の指導を受けており、水泳の実力は相当なものだったと考えていいと思います。
 さて、臨海教育はどのように生まれたのでしょうか。海で泳ぎを楽しむ習慣は明治まで日本にはなかったようです。夏目漱石は、西洋から伝わった海水浴や牛乳や運動に飛びつく日本人を、小説「我輩は猫である」の中で皮肉たっぷりに紹介しています。
 ともかく、健康によいということで海水浴は日本中に流行り始めます。初期は、海に挿した棒にぶら下がる程度の、まさに海水浴でした。そのような海水浴を、児童生徒の集団訓練と健康増進を目的とする臨海教育として学校教育に取り入れる過程で、学習院は大きな役割を果たします。
 明治24年、学習院は水練場を隅田川から神奈川片瀬海岸に移しています。その後、多くの学校が川から海に水泳練習場を移しています。工業化に伴い、河川が汚染されてきたこともありますが、海外進出、海洋日本という国策が大きく影響していると思います。
 昭和12年、片瀬海岸に、乃木希典の銅像が建立されました。学習院院長として、臨海教育でいつも来ていたという縁からです。残念ながら、終戦直後にその銅像は行方不明になり、現在は駐車場で風雪にさらされた台座だけが残っています。

高岡短期大学教授 立 浪  勝



片瀬海岸にあった乃木希典の銅像の今残る台座
(神奈川新聞2月28日より:神奈川新聞社、掲載許可済)